神戸市東灘区に於いて「保育所から聞こえる子どもたちの声がうるさい」として、
住民が保育所に慰謝料等を求めていた裁判の判決が言い渡されました。
結論としては訴えは棄却。騒音は受忍限度を超えたものではないということでした。
神戸市民なので目に留まりました。
このニュースへの反応は8割方、訴えを起こした住民に否定的なように思います。
「子ども相手に大人げない、寛容になれ」
「子どもは泣き騒ぎ遊ぶのが仕事。何も問題はない」
「(原告が高齢であることから)自分が同じ年頃の時は音ひとつ立てなかったのか?」
「子どもの声すらうるさいなんて寂しい時代だ。子は国の宝だが受け容れるべき」
「こんなことだから待機児童問題がなくならない」
大体がこんな感じでしょうか。
表現は変わっても否定的な意見の内容はこのどれかに当てはまるかと思います。
言っていることは分かりますし、いくつかは正しいとも思います。
道端に落ちている小石にいちいち腹を立てても意味がないし、そこから植物の芽が出ていたら
それがいずれ生長して花を咲かせるのだから見守ってやりなさいと言われれば納得できましょう。
実際、子が宝であることは間違いないのです。
その子が大きくなって偉大な発明家になるかもしれないし、起業して雇用を生むかもしれません。
そうでなくてもいずれは働いて収入を得、年金や保険料や税を納めて社会に貢献することでしょう。
何事も新陳代謝が必要であり、子はいわば栄養素のようなものです。
保育所や幼稚園を片っ端から追い出してしまえば、循環に支障を来すのは分かります。
そこまで考えているかは分かりませんが、この8割方の反応は社会的に正しい、あるいは正義とされるので、
コメントをされている人は後ろめたさや抵抗を感じることはあまりないかもしれません。
正しいとされていることを他の8割に混じって発言するのですから、そう感じることのほうが妙でしょう。
しかし一方で原告に同情的な意見もあります。
「訴訟まではいかずともうるさいのは理解できる」
「自分に関係のない音声は耳障りに感じるものだ」
「子は宝というが所詮は他人、我慢しろというのは違うと思う」
といった意見が多いように思います。
今回の件では地理や原告と保育所の関係等が仔細ではありませんので言い切るのは危険なのですが、
一般的に幼稚園や保育所の騒音問題となると、僕はこちらの同情的な意見を持っています。
もちろん、保育所が先に存在していて原告が後からそこに引っ越してきたケースや、
施設側が防音対策をして周囲に配慮している様子が明らかな場合等は別です。
そういった事例は除外して、子どもの声が騒音になるのかどうかと考えると、充分になると思っています。
実際、うるさいんですよ。
いい歳をした大人でもそうですが、人数が増えると箍が外れたように騒ぐ人がいますね。
大人でもこれなのですから、子どもが社会や周囲に配慮して静かにする……なんてことはまずありません。
中にはしっかりした子もいて状況を察する子もいます。
そういう子まで一括りにやかましいとしてしまうのは申し訳ない気もします。
秩序的なうるささ、ならまだ受忍もできましょう。
それこそ8割方の意見にあるような”子どもらしい騒々しさ”……つまり無邪気に遊んでいる子どもの声ですね。
「だるまさんがころんだ!」「もおーいーかい?」「まーだだよ!」
微笑ましいではありませんか。ああ、遊んでいるのだな……と思えます。
僕が、そしておそらく原告が言っている”うるさい”とはこういう意味のある文字に起こせない声なのです。
無理に起こそうとすると、「ギイエーーッ!」とか「ウオォワォワオオオォォッ!」とか、
「アイエエエ!」とか「ヴォォォオッホオオオォォォ!!」みたいな感じになるでしょうか。
極彩色の鳥類があげる声をイメージすると分かりやすいかもしれません。
自宅から少し歩いたところに公園があるのですが、たかだか数人でさえ動物園を思わせる奇声が発せられております。
耳障りな奇声など規制してしまえ、という訴えも分からなくはありません。
隣家の下手っぴなピアノだって家人と険悪な仲から騒音です。
もうひとつ、裁判にまで発展した理由は”他に方法がなかった”からかもしれません。
僕が小学生時分――20年以上前だと、外で遊んでいて度が過ぎるイタズラなどをしたら、
知らないおじさんやおばさんにも叱られていました。
スーパーの店員さんだろうが、近隣住民だろうが、余所の学校の先生だろうが、そんな区別など関係なしに、
一声かけてくる大人がたくさんいたものです。
で、僕たちは”大人に怒られた!”という事実が思った以上にショックが大きく、大抵はそれで大人しくなります。
そして熱(ほとぼり)が冷めた頃にまたイタズラをして怒られる……そのうちしなくなる……。
そんなことの繰り返しでした。
今になって気付いたことですが当時、知らない大人に怒られるというのは恥ずかしいことと捉えていたような気がします。
ばつが悪いというか、ショックというか、とにかくその事実が自制の一助になっていたことは間違いありません。
それが現代ではかなり難しくなっています。
このブログの地域猫活動の記事でも触れたことがありますが、今日日の子どもは手に負えません。
汚い言葉の語彙は多いわ、イタズラでは済まない事をするわ、好戦的だわで……。
怒ると叱るの区別をつけられない大人も問題なのですが、そもそも大人が子どもに声をかけられない時代です。
『危ないからこれはしてはいけない』『こういう結果になるから、こういうことは控えたほうがいい』
そんなちょっとした注意すら、彼らは反抗から入るので聴く耳を持ちません。
せめて聞いた上でそれでも自分はこう思う! と反発するのなら分からなくもないのですが……。
しかし悲しいことに少子高齢化の時代であります。
したがって幼き命には相対的に高い値打ちがあり、それを理由に堪忍を強要することが善であるのが現状。
是非とも8割方の原告に否定的な方には、保育所の近辺に住んでいただきたいものです。
1日や2日などの体験型ではなく、少なくとも数年。
それでも音のひとつ上げることなく、やんちゃな子どもを微笑ましく見守ることができるのであれば、
原告のような人と住まいを交換してみてもよいかもしれません。
しかしもし音を上げたなら、「ほらね」と言われるだけです。
この問題を解決するにはどうすればよいのでしょうか。
意見の対立がある以上、どちらかが譲歩するか、妥協点を探るか、全く別のアプローチをするか、だと思います。
我慢しろ! という人はついでに付随するあれもこれも我慢しろ、と言うかもしれません。
我慢できん! という人は些細なことにさえ我慢できなくなるかもしれません。
もういっそのこと、区分けしてしまえばいいのではと思います。
店ばかりが集まる商店区、住居ばかりが集まる住宅区。
そして一般にクレームが入りがちな施設が集まる特別区を設けるのです。
特別区には保育所、幼稚園、小学校のほか、葬儀場、火葬場、刑務所、廃棄物・下水処理場等のいわゆる嫌悪施設を
ひとかたまりにしてしまいます。
特別区は商店区、住宅区から○○メートル以上離し、風向き、音その他に特別の配慮をしなければならない……。
なんてことができればよいのでしょうが、現実的ではないですね。
難しいものです。