ノスタルジックな気分に

 不意にこんな気分になることがあります。
僕はノスタルジックな気分とは浸るものであるときと、陥るものであるときとがあると思っています。
前者は前向きな気持ちで過去や古いものを懐かしみ、後者は後ろ向きな気持ちで過去や古いものに縋ろうとする。
そういうものだと考えています。
そして今回、僕は後者です。
最近、公園のベンチに座り、ぼんやりすることが多くなりました。
幸いにも歩いて行ける距離に大きな公園が3カ所ほどあり、憩うにはちょうどよいのです。
広ければ広いほどいいですね。
できれば視界に近代の建造物が入らなければ尚良いでしょう。
さらに道路が遠ければ言うことはありません。
鳥の囀りと木々の揺れる音、たまには航空機の飛行音が耳朶に心地よく響きます。
きつとこんな気持ちになるのは、鬱病を患っている身内と10年も同居しているからでしょう。
鬱、過呼吸、パニック……その差異は僕には分かりませんが、同じように見えます。
日常の会話、何気ない受け答え、外出の同行。
そのどこにトリガーが潜んでいるか分かりません。
まさかと思う一言がキッカケとなってヒステリックに責められることも数知れず。
気分転換に旅行に連れて行っても、その効果は数日と持ちません。
ご機嫌取りにプレゼントを買っても、その効果は半日と続きません。
とにかく毎日、黒ひげ危機一髪をひとりでやっているような想いです。
口癖のように「死にたい、消えてしまいたい」等と言うので、生の尊さを話したり、死んだら悲しむ人がいる等と嗜めたり、
どうにか気分を逸らそうとするも、
「簡単に言ってくれるな。生きているのが辛いから言っているのだ。私の気持ちなど誰にも分からない」
と返ってくるのが常。
ならばもう何も言うまいと口を噤めば、
「冷たい。人でなしだ。私が死んでも何とも思わないのか。どうして止めてくれないのか」
と畳み掛けられるのも、また常。
言葉を選ぶのにも疲れ、さりとて無視することもできず――。
正解のない問答の繰り返しに辟易し、ふらりと外に出て、気付けば公園にいるのです。
そのついでに今日、少しばかりの遠出をしてみます。
20年前まで住んでいた場所がどうなっているのか、見てみたくなったのです。
ノスタルジックです。

 

 

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 以前住んでいたのは市営住宅の高層階。
ちょうどその場所から見られる風景です。
神戸は方角をいうとき、北のことを「山側」「山の手」などと言い、南のことを「浜側」「浜の手」などと言います。
つまり写真は北側です。
これの左側は阪神淡路大震災で特に損壊がひどい地域でした。
今でもニュースなどで特集が組まれると、その当時の様子が必ずといっていいほど取り上げられます。
よく復興できたものです。

 

 

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 神戸とはいえ都会の田舎みたいな場所だったので、すぐ裏手にはこのような建物も。
当時は布団屋さん(販売ではなく打ち直しをする作業場)で、愛想のよいおっちゃんと、クロと呼ばれる柴犬がいました。

 

 

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 公園はすっかり様変わり。
小奇麗な煉瓦が敷き詰められていますが昔は一面砂地でした。
右側の屋根と手前のベンチは当時のままなので、新旧が混交する不思議な感覚です。

 

 

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 公園その2。
中央に何かがあったような空間がありますがそのとおり。
今では形はハッキリとは思い出せませんがすべり台付のヤグラのようなものがありました。

 

 

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 公園その3。
嬉しいことにここは当時と変わっていません。
樹木が多く、足元は落ち葉のクッションが広がっているので転んでもほとんど怪我はしません。
この公園の花形だったジェンガのようなヤグラ。登って遊びます。
子どもの頃は大きく見えたのに、今は俯瞰するアングルで写真を撮っているのでこちらも奇妙な違和感。

 

 

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 キンジョスゴイフルイジハンキ。
日当たりのよい場所に設置されているところがまた物悲しさを誘います。

 

 

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 なんということはない、ここより高い位置にある駐車場との境目です。
崩落防止のために塗り固めてあるのでしょうが、こんな斜面すら子どもにはよい遊び場です。
朝、少し早目に家を出て学校に着くまでの間、何人かで登っていました。
かなりの勾配なので靴や前日の天候によっては滑り落ちてしまいます。
そこを何秒耐えられるか……そんな競争ばかりしていました。
一か所だけネジのようなものが出っ張っている箇所があり、そこに足をかければかなり踏ん張れるので、取り合いになっていましたね。

 

 

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 母校、ついに取り壊しはじまる。
僕に商業の道を教えてくれ、今も自分の大部分を形成している学び舎が解体されています。
良いことも悪いこともたくさんあった3年。
時の流れゆえ仕方のないことなのかもしれませんが、カタチあるものが失われていくのは寂しいものです。
同時にどのように生まれ変わるのかが楽しみでもあります。