いじめとは? 責めるべきは?

『いじめ』という言葉の意味がよく分かりません。
だいたいこういうことを指す、とは理解できても説明は難しいものです。
この言葉が使われるのは、場所としては学校か職場が大半かと思います。
さて、この『いじめ』という言葉、実はよくできていて、物事を曖昧に表現するという、
実に我が国らしいオブラートの役目を果たしています。
たとえば「死ぬ」という表現はストレート過ぎるので、「天寿を全うする」とか「往く」とか……。
身分が違えば「お隠れになる」「崩ずる」等とも言いますね。
言葉は違えども意味は「死」です。誰であっても等しく、この現象は訪れます。
お話を戻して『いじめ』ですが、これも同じようなものです。
する側とされる側がいます。
相手の嫌がることをする、精神的・肉体的に苦痛を与える、かつあげ等があります。
簡単に言えば殴る蹴る等の暴力、恐喝、そして最後は殺害です。
これが学校での出来事――とりわけ小中高校生が主軸となると学校の内外でも『いじめ』という表現になります。
この言葉、僕は嫌いです。
殴れば暴行、かつあげなら恐喝、死なせたのなら殺人と、それぞれに既にその行為を示す言葉があるのです。
ところが『いじめ』というたった三文字がその区別を曖昧にし、語感を和らげ、ひいては危機感さえ失わせます。
殴ろうが金銭をせしめようが殺そうが、『いじめ』のおかげできつと罪の意識は感じずにすみます。
これは窃盗に対する『万引き』も似たようなものです。
わざわざ凶悪な事件を優しい言葉に置き換えてあげる意義とは何なのでしょうか?
加害者側は気が楽になるだけで利する効果しかありませんし他方、被害者側からすれば辛辣な目に遭ったのに、
柔らかい表現にされては恨み骨髄に入る想いでしょう。
まして何も知らない第三者にこのような言い方をされては、神経を逆撫でするのもいいところです。

 

 もうひとつ、これらの報道について合点がいかないこと。
学校です。
対応のまずさ、ではありません。
いじめがあった場合、それを認識していたかどうかは問題ではありません。
なぜ学校が記者会見で対応に追われ、初動のまずさを追及され、ついには謝罪しなければならないのか……。
学校を責め、学校が謝っても仕方がないのです。
責めるべきはいじめを行った子であり、親であり、謝るべきはいじめを行った子であり、親であるべきです。
会社員が何事か事件を起こして、その人物の勤め先が記者会見を開き、謝罪しているところなど見たことがありません。
これではまるで学校がいじめを行ったみたいではありませんか。
ただのケンカならともかく、暴行傷害恐喝殺人と言って差し支えない非道の数々を、それを明確な意識を持って
実行した子やその監督責任を負う親に対して批難せず、教育の場に非があるかのように責め立てる意味はありましょうか。
学校は国語なり算数なり、地歴公民なりを教えていればよろしいのです。
体育や美術などのいわゆる実技科目も必要でしょう。
その合間に道徳などの勉強をちょっとやればいいのです。
(この場合の道徳とは集団生活に於ける規律を主題にすれば充分。個としての道徳は一律に強制すべきではありません)
いじめはしていい事なのか、悪いことなのか。そんなことは家で親が教えるべきなのです。
少なくとも小学校に入るまでに親が人道や道徳を教え、それを礎に今度は集団生活の中で学問を学ぶ。
親がすべきことを何もしないで学校に投げ入れれば、勉強云々の前に人としての基礎が出来上がっていないのだから、
いじめ等の問題行動が起こったとしても不思議はないでしょう。
深刻ないじめがあるのなら、なぜ当事者である子を咎めないのか?
なぜ親を追及しないのか?
未成年だから。善悪の判断がつかないから。更生の余地を残すため。
子どもは様々な理由で守られています。
しかしそこまでして守る必要があるとは思えないのです。
止むを得ない場合を除き、実行者の年齢など関係なしに行為の事実をもって罰するべきだと思うのです。
何をしても許される、ということくらい子どもは分かっています。
分かっているから何でもできます。
国の宝なのかもしれませんが、こんな危険な存在が昼間は学校、放課後や休日には町に放たれている状況は怖すぎます。
明確な危険を感じさせるクマやイノシシのほうがまだ安全です。
実行犯が子どもだから罰せないのなら、それに相当する罰は親が受ければよろしいのです。
それもできないなら子どもを外に出さないほうがよいのです。
どうしても外に出したければ伸縮性のない3メートル未満のリードで繋いで歩かせればよいのです。
飼い犬が誰かに危害を加えれば飼い主の責任です。
放し飼い、躾の不徹底、不注意等の理由で咎められます。
ならば子が危害を加えれば、子をきちんと躾けられなかった親の責任です。
何ら罰則を科せられない凶悪な子どもなど、檻が施錠されておらず脱走して走り回っている野獣と変わりありません。

 

ひとつ前の記事でポケモンgo報道に触れましたが、それと同じで、なぜ”人”の所為にしないのかが不思議でなりません。