震災におもうこと

 関東ではどうか分かりませんがこの時期、近畿圏のメディアはある言葉に染まります。
阪神淡路大震災から○○年」
鎮魂、復興の歩み、これから……。
地震についての様々を考えさせられる日です。
この時、常套に用いられるのが、”震災を忘れないように”という自戒に近い言葉です。
実際、被災した人でさえ忘れてもおかしくはありません。
なにしろ今年で20年。
神戸(特に長田)を歩いてみても地震の爪痕はどこにも見当たりません。
一時期は減少していた人口も再び増え、未曾有の震災に見舞われた町は完全に元通りになっています。
つまり来訪者からするとわざわざ慰霊碑を視界に入れない限りは、ここがかつて天変地異によって瓦礫の山と化したことなど想像もできないわけです。
さて、地元新聞等では当然のごとく、この大震災を記事に扱います。
とても大きな出来事だったし、死傷者の数にしても、規模にしても信じがたい歴史の一部でした。
当時10歳だった僕ですが、細部の記憶は曖昧でも揺れの大きさと音だけは今でも鮮明に憶えています。
ちょうど頭の上にあったブラウン管テレビが、テレビ台の上で画面を下にして静止していたのを見たときは、子どもながらに死に近づいたのだと感じました。
その時は高層階に住んでいたので被害も大きく、片手に持てる程度のあらゆる物が床に散らばっていました。
ベランダから観た風景は今にすれば恐ろしいものだったハズですが、当時は妙に幻想的な印象を受けました。
深夜なのに外が夕方のように明るいのです。
空は茜色で、下は真っ暗で、ところどころは火事になっていて大きな赤い塊が転がっているようでした。
その代わりに人工の明かりが全くなかったので、赤と黒はくっきりと分かれていたと記憶しています。
こういう災害が起こるとたいてい、すぐに家の外に出るべきだと言われますがこれは正解です。
たとえばガス管の破裂から爆発、電気系統の瑕疵から火事になることもあります。
割れた食器類が散乱しているので誤って踏まないように外に出ます。
誰もが冷静ではなかったのでまずはエレベータのある棟を目指してしまったのですが、辿り着くのは困難でした。
渡り廊下が千切れているのです。
段ボール紙を強引に手で引き裂いたような感じです。
飛び越えればよいのでしょうが、着地した先が大丈夫とは限りません。
そこで初めて自分がいる棟に階段が設えられていることを思い出します。
普段エレベータを使っていましたから、階段で降りるという発想に至らないのですね。
――と、このような具合で無事に脱出。
この後、生きていることに感謝するもつかの間、支援物資や地方自治体からの助成について悶着があったり、報道ヘリの飛行音によって助かるハズの命が助からなかったり……といろいろな問題が湧き上がってきます。

閑話休題
今回申し述べたいのはスリルに満ちた脱出劇ではありません。
冒頭で挙げた報道についてです。
たしかに忘れないことは肝要です。
備えを怠ったばかりに天災で命を落とすこともありますし、備えを万全にしていれば助かる命もありましょう。
しかし今、生きている人の中には誰かを犠牲にしている場合もあるのです。
家族や、親しい人、もしかしたらいずれ人生を共にする人を亡くしたかもしれません。
そうした方々に20年経った今でも震災を思い出させるのは、却って酷なことではありますまいか。
実際に忘れてしまいたい、という声もあります。
トラウマを穿り出され、ようやく癒えた痛みを年に一度刻み込まれる。
その意味では主に人為的に、20年前の震災が今も止まず続いているといえましょう。
忘れたっていいと思うのです。
憶えておきたい人は憶えておけばよいのです。
目を覆い、耳を塞ぎたくなる人もいる。
そこに配慮すれば無暗矢鱈に天災を美化する必要も、殊更にまるで使命や義務のように地震を取り扱うこともないのです。