コトバとは

 もはや”神戸だから”は何の理由にもならない時代ですが、よく外国から来られた人に道を尋ねられます。
欧米の人が多いのですが、英語なんて中学卒業レベルで留まっている僕には母国語以外での対応はできません。
といって日本語で説明しても互いの理解度の相違から、なかなか伝わらない時があります。
そういう場合は実際にその場所まで連れて行きます。
道を尋ねてくる人はたいていそこから近い場所を目的地にしているので、急ぎの用がなければ送ったほうが手っ取り早いわけです。
5分少々の移動は勿体無いとも思いません。
そこまで逼迫した生活を送っていないからです。
さて、今回は道を尋ねられた時の対応の仕方がテーマではありません。
重要なのはそのひとつ前の段階。
そもそも僕が時間を割いて、本来の行き先とは反対方向であってもその人を案内したくなるのは、
誰もがあまりにも丁寧な尋ね方をしてくるからなんですね。
それはもう慇懃に。
たぶんそういう参考書のようなものがあって、それに沿って声をかけてくるのでしょう。
たどたどしく模範的で美しい日本語です。
流暢とは程遠いのです。
センテンスの区切り方も妙だし、イントネーションもどこか曖昧です。
しかしその言葉自体は正しく”日本語”といえるものです。
例えば僕たちが中学や高校の英語の授業で習う、”~~の言い方”はきっと文語的な単語の選び方をしていて、
実際の会話ではあまり用いられないでしょう。
テストではそれで満点でも、英語圏に飛び込んでみれば、
「カタイなあ……」
と思われるかもしれません。
母国語に慣れ親しんでいる――というより、”慣れている”という感覚すら抱かないほどに生活に浸透している日本人にとって、
「私は○○まで行きたいのですが、どのように行けばよいのでしょうか?」
と声をかけられれば違和感を持つかもしれません。
回りくどい、長ったらしい、と感じるかもしれません。
僕はそうは思えなかったわけです。
むしろ忘れかけていた日本語を思い出したような感覚を味わいます。
この国に生まれ育っておきながら、もう誰も使わないような規範的な質問文が緩急をつけた音声として届くのです。

日本人にもよく道を尋ねられます。
馴染みのない土地の地図を開くよりも、現地人に訊いたほうが手っ取り早いのです。
僕でもそうするでしょう。
ただこの場合の訊き方がもうヒドイわけですよ。
ほぼ50%の確率でウソを教えてやろうかと思いたくなるような傲岸不遜な尋ね方をされます。
訊く側だから謙れとか、教える側だから驕慢であれ、などと言うつもりは勿論ありません。
ただ初対面で「です・ます」すら末尾に添えられないお方とは微塵もお付き合いしたくないのであります。
そういう人が多い、というお話ですね。
だからこそ対照的な外国の方の口調には癒されるのです。
日本の伝統工芸や芸能を、日本に興味を持つ諸外国から来られた方々が継承しているといいます。
いつかこの国の言語そのものも、彼らが受け継いでいく時がくるやもしれません。