馬齢を重ねるという言葉は馬に失礼な気がする、と最近気付いた浅学菲才の戯言

 小学生の頃、近所の中学生がずいぶん大人に見えたものです。
詰襟の真っ黒な制服だったせいもあるでしょう。
僕は平均より低身長だったために尚更そう感じました。
数年が経ち、自分もその歳になってみると、
『中学生なんてまだまだ子どもだな』
と思ってしまうのであります。
周りも自分とほぼ同じように歳をとるために、どうしても小学生の延長としか受け取れないわけですね。
で、小学生を見てみると大きなランドセルを背負う様に懐かしさは感じれど、子どもだな~とは思えないわけです。
理由はよく分かりません。
制服か私服か。ランドセルか学生鞄か。
違いとしては大きいかもしれません。(特に見た目が)
外見から受ける印象によって物事の考え方が左右されるのならば、自分が”大人だ”と見ていた制服を着ることで、
見た目から来る印象と実感との差がなくなり、そのように感じるのかもしれません。
ところで中学生になると、今度は高校生が大人に見えてきます。
今度は見た目の差異など殆どありません。
結局は制服を着ているのだし、鞄はある程度自由が利くものの華美でないものに落ち着いています。
それでもそう感じてしまうのは、『高校生』という呼称に実態以上のイメージを持っているからなのでしょう。
明確な理由などなく、とにかく”大人っぽい”と思ってしまうのですね。
しかしそれも中学を卒業するまで。
いざ自分が高校に入ると、やはり同じように”大して変わらない”と考えを改めるわけですね。
こういう事を人は幾度となく繰り返すようです。
前述の例をもう少し細かくすれば、小学4年生くらいの子は上級生たる6年生が大きく見えるものですし、
中学1年生は3年生を、高校1年生も3年生を大人だと認識してしまうのです。
憧憬や羨望から来る感覚なのでしょうか。
ところがこの感覚、会社勤めをやるとガラリと変わります。
それまでは年長者が大きい人――つまり大人に見えていたものが、今度はその正反対。
逆に子どものように見えてしまうのです。
もちろん中には賢しい人もいます。

『さすがにこれだけの時間を生きてきた人。見識には恐れ入る』
『同い年ながら自分の知らないことをたくさん知っている。言葉も知っている。これは見習わなければ』

……と、思わせるような人物ですね。
残念ながらそれらは少数です。(僕の周りだけかもしれませんが)
ある年齢を過ぎると得たものを悉く吐瀉したかのように、中学生(ひどければ小学生)同然の言動しかできない人。
理性よりも本能を優先させてしまう輩。
TPOを弁えない、そもそもTPOという概念すら持ち合わせていない族。
そういった連中が多いように思います。
僕は年長者は年少者より賢いのが当たり前だと思っています。
1年なり2年なり長く生きているのだから、その分だけ知識や知恵を蓄えて人格もより高く形成されて当然だ、という考えに依ります。
いま周りを見渡すとそうした人が極めて少ないことに驚きます。
月日は人を大して成長させないものかと。
そういう環境にいますから、時にネットの世界で知り合った人や数少ない友人が年相応どころか、実に達観していて蘊奥深く、
語彙が豊富で俚諺に堪能で、蒙昧な人種とは一線を画している人物であると分かると安堵のため息を漏らしてしまうのです。
それが同い年となるとなお尊敬の念は強まります。
専門学校時分、共に税理士の勉強をした友人がいます。
今ではサブカルにもかなりの興味を示している彼ですが、税理士試験では既にいくつかの科目で合格を果たしています。
常識を弁えていますし、粗野な言葉遣いもしません。
彼は今も勉強しています。全科目取得の道は長く、モチベーションを保てる勤勉さには憧憬の念を抱きます。
ここ暫くでネットの世界で知り合った人がいます。会ったことはありません。
主に文字でのやりとりを行っているのですが、そのためか非常に語彙が豊富であることを実感します。
知らない言葉もいくつか飛び出し、その度に僕もまたひとつ、その知らない言葉を知ることができるのです。
読書家なのだと思います。
経済や法律、哲学にも造詣が深いようで、どちらかと言えば自分は賢しいほうだと思っている僕も、その博識には敵わないと痛感します。
こうした人たちが同い年であることに僕は誇りを感じるのです。
会社に僕と同い年の営業がいます。
営業をやるだけあって声は大きく、行動的で、口調は粗野で、性欲旺盛です。
ああ、でも一応敬語は知っているみたいです。先輩には「~っス」と言っていますから。
自分も含めて、人はどういう環境で生まれ育てばこうなるのか……と、最近よく考えるようになりました。
苦労ばかりの子ども時代を過ごせば、成人した時に少々の苦痛は意にも介さないほど強靭になれるのでしょうか。
本とともに子ども時代を送れば、人並み以上の読解力が身に付き、文章を練る技術も向上するのでしょうか。
何か明確な目的や理想、あるいや夢があってそれを達成するために苦労を厭わない人もいれば、
遊蕩怠惰に日々を貪り、口を開けばゲームやらアニメやら性的なテーマに話を持っていこうとする人もいます。
飄々として捉えどころがないと思わせ、実は胸中にしっかりとした考えを秘めているらしい人もいますし、
過度に謙遜し実力がないように見せかけ、ここ一番で誰にも成し得なかった偉業を達成する人もいます。

100人いれば100通りの人生がある。
至極当然のことなのですけれどね。
どうしてこれだけの差が生まれてしまうのか――納得のいく答えは未だに得られていません。

そんな僕も今日、26歳になりました。
こんな事を今になっても考えているあたり、まだまだ大人には程遠いようです。