永遠のさようなら


 ゴールデンレトリバーの女の子、クッキー。
13歳2ヶ月。
6月23日午後2時、お空に旅立ちました。
人懐っこくて誰にでも愛嬌を振りまく社交性のある子でした。
その反面、他のわんこが苦手で病院の待合室などでは飼い主さんに遊んで欲しいのに、
その人が連れているわんこに擦り寄られて露骨に顔を背けるような子でした。
何でも食べる子です。
好き嫌いはありません。
バナナや茹でた人参。ケーキも食べます。
お嬢様なので市販の安いジャーキーなんかを食べるとすぐにお腹を壊しました。
行動的な子だったので散歩が大好き。
人間をよく観察する子で、自分に構ってくれそうな人を見つけたらすぐに飛びついていきます。
逆に動物嫌いな人もすぐに見抜き、そういう人には決して近づきません。
動物病院も大好き。
治療に行っているという感覚は彼女には無く、獣医さんやスタッフさんにいつも遊んでもらっていました。
とにかくはしゃぐので診察台に上がってもすぐに体重が測れません。
注射も全然怖がりません。
獣医さんが好きなので針を刺されるときも大人しく、ニコニコ顔で処置が終わるのを待っています。
とにかく誰をも愛し、誰からも愛されるわんこでした。


 7歳頃に発症したアトピー
最初にかかった獣医の不適切な処置でステロイドを大量に服用し、その副作用で体がボロボロでした。
症状が改善しないのでその獣医は段階的に薬の量を増やし、ついに限界いっぱいまで達しても治らなかったので、
「これ以上はどうにもなりませんが、どうされますか?」
と匙を投げられました。
そこで送迎をお願いしているペットタクシーに評判の良い動物病院を紹介してもらいました。
その時、クッキーの被毛は殆んど抜け落ちていて、赤い発疹だらけの皮膚が露になっていました。
見た目にはゴールデンとは分からないくらいです。
新しい先生は彼女を見るなりハグしてくれました。
「辛かったね、えらかったね。先生が治してあげるからね」
神戸のやや西に病院を構えるその先生はちょっと関東っぽい喋り方でした。
そこからは4人3脚でした。
薬の種類を変え、その量も極限まで減らし、さらに特別なシャンプーを遣っての入浴。
そのお陰でクッキーの体はみるみる回復。
ゴールデンと胸を張れるフサフサの毛を取り戻しました。
でもそれは見た目だけでした。
クッシング症候群に冒され、彼女の肝臓は大きく腫れあがってしまいました。
人間でいえばビール腹のような状態です。
それでも若さでカバーできました。
興奮したりして体温があがると掻き毟る癖があり、放っておくと血だらけになってしまいます。
だから日中も目が離せなかったわけですが、換言すれば掻き毟れる元気があったのです。
6月17日くらいまでは本当に元気でした。
多少後ろ足が覚束ない感じでしたが、ご飯の時間になると催促するように器の前に移動します。
すぐ傍にフードの袋があるので、それと母の目とを交互に見ながらせがむわけです。
でもこの日、いつもなら器いっぱいのフードを食べきるハズが半分ほどで食べるのをやめてしまいました。
水もあまり飲まなくなりました。
飲んだとしても2口ほど飲み、それから顔を上げて少し休んでまた1口……という状態でした。

 18日、後ろ足がほとんど動かなくなりました。
後駆用のハーネスを急遽用意して補助をしないと立ち上がれません。
散歩にも行けなくなりました。
ご飯も水もやはりいつもの半分ほどしか食しません。

 20日、今になって悔いても遅いのですがこの日は漢字検定を受けに昼間外出しました。
こうなることが分かっていたら受験会場まで行かずに、一日中クッキーと遊んでいたと思います。

 21日、後ろ足はもう自分では動かせません。
午前中だけ会社を抜け出し、別の病院に診察に行きました。
皮膚病に特化した医者がいるということでペットタクシーに頼み山道を抜けます。
ですが辿り着いたところではあまりに辛辣な言葉。
もうこの子は長くない。末期だ。覚悟した方がいい。
一応診察はしてもらいましたがそこでの治療で治る見込みは殆どないとのことでした。
僕は昼から出社。
日中は母が彼女につきっきりです。
勤務中も逐一、母から状況を知らせるメールが届きます。
僕が同行した午前中はそんな事はなかったのに、昼過ぎ頃からクッキーは前足もほとんど動かさなくなりました。
少し前までは立ち上がる際に腰を補助してあげればあとは自分の力でしっかり立つことができたのに、
この時から”立て”の姿勢で手を離すと平泳ぎの姿勢みたいに四肢を投げ出して倒れてしまうのです。
それに加えて息遣いが激しくなりました。
何キロも走った直後みたいに体全体を上下させて苦しそうに呼吸をしています。

 22日、僕は平常通りに出勤。
クッキーは前日夜から激しい息遣いのせいで一睡もしていません。
母が低反発のマットの上に移動させました。
もう自分では動けないので定期的に寝がえりをさせます。
しかしどんな姿勢をとっても呼吸は全く落ち着きません。
朝昼のご飯はフードを20粒ほどしか食べませんでした。
この時ばかりは幼犬時のしつけ方を間違えたと思いました。
クッキーは外でしかトイレをしません。
家中を汚してはいけないと思っているのか、最後の最後まで我慢します。
前述のように体は動かせないので外にトイレにはいけません。
2人がかりで持ち上げて連れ出そうにも、トイレの姿勢がとれないのです。
そこで人間用の紙オムツを使うことにします。
尻尾の部分に穴を空けるだけです。
これを穿かせていればクッキーも気兼ねなく排尿ができると思っていました。
しかしそれでも彼女は我慢しました。
食慾はないと言っても、水だけはある程度飲みます。
この日の夕方近くまで一度も排尿をしていない爲、そろそろ用を足さないといけません。
午後6時頃、母からメールが届きました。
『先生が受け容れてくれた』とのことでした。
厭な予感はしていましたが、僕にはある程度の覚悟はできていました。
何年か前から先生には、もしクッキーにその時が来て疾患や怪我で苦しい思いをしながら最期を迎えるのであれば、
その前に安らかな死をあげてほしいと言っていました。
その先生は飼い主よりも犬猫を一番に考えてくれる人だったので、
『食欲があって自分から食べる状態であれば、それはその子の生きたいという意思なので安楽死はしない』
といつも言っていました。
しかし状況が状況だけに苦痛が長引くのは……というひとつの決断が下されたようです。
フードを無理に口の前に近付けて1粒1粒舐め取るように食べるのを、食慾があると言えるのかどうか。
僕たちも先生もずいぶん悩みました。
仕事を終え、僕は近所のスーバーでケーキを買って帰りました。
部屋に入るとメールで伝わって来た内容と違ってクッキーの呼吸は落ち着いていました。
帰宅の数分前に我慢できずに紙オムツで排尿をしたということでした。
膀胱が空になったことで苦痛からある程度解放されたのか、呼吸だけは落ち着いていました。
でもやはり四肢は殆ど動かせず、買ってきたケーキを目前に並べても匂いを嗅ぐだけで口にしようとはしません。
元気な時ならスーパーの袋を覗きこんだり、買ってきた品物をテーブルに並べる都度検品するように鼻を近づけていたのに。
ロールケーキを包みから出し、一口大に千切って差し出すとゆっくり食べてくれました。
試しにと丸ままのケーキを見せるとクッキーは直接かぶりつきました。
もしかしたら、と母と相談しました。
安楽死はまだ早すぎるのではないか。
こうやってケーキを丸かぶりするくらい元気ならまだまだ健康で生きられるのではないか?
そう考えましたが、数分後にはもう食べ物には興味を示さなくなりました。
水も茶碗に入れたものを舌を濡らす程度にしか飲みません。
さらに数分するとまた呼吸が荒くなりました。
やはりもう駄目かもしれない。
クッキーには悪いですが僕はそう考えていました。

 23日。
お迎えは昼1時30分に来ます。
呼吸はついに整わず22日から23日にかけてもクッキーは一睡もしていません。
朝ご飯は食べられず、昨夜に買ったケーキをまた少しだけ口にしました。
マットの上で動かない体を必死に動かし、上体だけを起こしたり横になったりを繰り返しました。
おそらく楽な姿勢を探していたのでしょう。
しかしどんな恰好をしていても息苦しいのか姿勢は安定しません。
3日寝ていないクッキーは今にも眠ってしまいそうな目をこじ開けていました。
あと数時間もしたらこの子はここにはいられなくなる。
僕は最も親しい友人を呼びました。
学生時分、同じく税理士を目指して勉強した仲です。
半ば無理やり都合をつけてもらって招きます。
彼はちょくちょく家に遊びに来ていて、クッキーもよく懐いていました。
最後の別れを前にクッキーは嬉しそうでした。
体いっぱいで喜びを表現することはもうできませんが、彼の腕を弱々しく舐め、2回だけ尻尾を振りました。
午後1時30分。
予定通りにペットタクシーが来ました。
少しでも負担にならないようにと、元気な時と違ってクッキーをマットごと車に乗せます。
病院までは30分ほど掛かります。
車の中でもクッキーは苦しそうに息をし、体勢を変え続けていました。
前日まで雨が降っていましたが、この時は運よく止んでいました。
最後だから……と、病院のすぐ近くにある公園に寄り道します。
近所と違って芝生が広がっていて、地面もラバー仕様の足に優しい通路です。
マットのままクッキーを芝生におろします。
嬉しそうでした。
この数日、全く外には出ていませんでしたから。
元気な頃はこの敷地を悠然と散歩していたものでしたが、彼女はマットの上で顔だけを動かして風景を楽しんでいるようです。
前述のようにこの子は室内ではまずトイレをしません。
久しぶりに外に出たことで安心したのか、クッキーはマットに寝転んだまま最後の排尿をしました。
血尿というのは尿に血が混じる状態のことですが、この時クッキーがした尿はほとんど血そのものでした。
どろっと濁った感じの血。
昨夜なら排尿後は呼吸が落ち着いていたのに、この日は膀胱が空になっても相変わらず息苦しそうでした。
血が出たことで動転した僕たちは慌ててタクシーに戻り、病院へ連れて行きました。
よく考えればたとえ出血しようとも、もっと長いこと公園に居させてあげればよかったのですが……。
診察室に運び込まれた妹は大好きな先生を前にしても喜びを表現することはありませんでした。
いつもにこやかな獣医さんが、血だらけのオムツとマットを見た瞬間、険しい表情をしました。
「これは……」
と呟いたきり、先生はクッキーの頭を何度も撫でました。
最後の診察をしてくれたのですが体温は高く、舌も紫色に変色していてやはり危険な状態とのことでした。
血尿は膀胱炎が原因です。
ここに来る時には既にその覚悟はできていたのですが、やはりいざとなると躊躇してしまいます。
「膀胱炎を治す薬を飲めば食慾が戻って元気になりますか?」
という母の質問に先生は、
「それは分からない。ただこの状態ではたとえ薬を飲んでももって1週間~2週間だと思う」
と答えました。
確かに延命はできます。
でも体の自由が利かなくて自分の力ではどこにも行けない、立ってお気に入りの場所にすら行くことができない。
大好きだったケーキにすら興味を示さなくなって、楽しみだった食事もしない。
何より下腹部の膨れはもう治らないから、この先ずっと荒い呼吸のまま最期を迎える。
こんな延命でクッキーが本当に安らかな余生を送れるのか。
五体満足ならまだしも中途半端な治療をしたために残り少ない寿命を苦痛と一緒に過ごさせていいのか。
診察室でも散々迷いましたが、僕たちは最初の気持ちを持ちなおすことにしました。
安楽死は一瞬です。
注射器で薬を体内に流せば眠るように逝く、という説明は随分前から聞いていました。
処置室に運ばれたクッキーを先生とスタッフが見守ります。
僕と母は真正面に立って彼女を見ていました。
熱の所為か目がぼんやりとしていた感じがします。
先生が腕の付け根あたりに注射針を差し込んだのが視野に映りました。
母がクッキーの頭を撫でながら、
「眠るように逝くんですよね? まだ目が開いてますけど、まだ生きてるんですよね?」
と問いかけたところ、先生はちょっと間を置いて、
「この子の心臓はもうとっくに止まってるんだよ」
と泣きそうな声で言いました。
クッキーの目は確かに開いています。
虚ろな感じで僕たちを見ているのかと思っていました。
が、先生が針を刺したほんの数秒後にはもう彼女はこの世界からいなくなってしまったのです。


 クッキーは最期の日を知っていたのでしょうか?
いつもと違う時間にタクシーに乗り、いつもと違って先に公園に寄り、それからいつもの病院に行く。
ワクチン接種も何もかもこの先生にずっとお願いしていたから、クッキーはもしかしたらただの通院だと思っていたかもしれません。
注射をされるのも予防接種か血液検査のためで、これが終わればいつも通りタクシーに乗って帰るものだと思っていたかもしれません。
でもそうすれば恐らく彼女は短い残りの時間を、苦痛とともに過ごすことになったハズです。
少しでも長い時間、愛犬と過ごしたいと思うのは飼い主の気持ちです。
でもそれによって辛い想いをするのは彼女のほうです。
僕も今年に入ってからこの事は考えていましたが、やはり何度考えても苦痛が長引くなら安楽死を――という結論に達します。
安楽死を選んだことに後悔はありません。
ただもっとたくさん遊んであげればよかった、もっと色んなところに連れて行ってあげればよかったという悔いはあります。


↑お菓子が大好きだったのでたくさん持たせました。
 虹の橋のたもとに行くまでに食べ切ってしまうでしょうけど……。

 翌日、彼女は荼毘に附されました。
綺麗な体で逝けたのがせめてもの救いです。
火葬場を受け持っていた業者の方が、火葬を終えた時に、
「この子の骨はとてもきれいでしたが、内臓……肝臓あたりを患っていませんでしたか?」
と質問されました。
見る人が見ればどこが悪いのかが分かるそうです。
実はクッキーが亡くなる2週間前、先生の紹介で一度だけ心臓検査に強いという別の病院を訊ねていました。
エコーなど数種の検査では異常は見られず、レントゲンでは肝臓の肥大だけが確認されました。
クッキーが亡くなる前後、先生とこの病院の先生とで何度もクッキーの状態について話し合ってくれていたそうです。
足腰が立たなくなった原因は、ステロイドの副作用によるものか、股関節の異常か、あるいは神経系統に問題があるのか?
腹部が大きく垂れ下っているのはクッシング症候群による肝臓肥大だけが原因か、老化による下垂もあるのかなど。
ハッキリとした原因は結局分からず仕舞いです。
知りたいという想いは今もありますが、何より診察したら終わり……ではなくて、こうしてクッキーのことを考えてくれる獣医さんに
出逢えたことが嬉しくてたまりません。
彼女は実に多くの人に愛されていた。
そう考えれば嬉しく、その命を絶つ選択をせざるを得なかったことが残念でなりません。



四十九日が過ぎたら……。
気持ち悪いと思われるかも知れませんが、彼女のお骨の一部を自分の体の中に入れようと思っています。