箴言

クッキー(家にいたワンコ)の法要に参加しました。
御骨壺は自宅にあるのでそのまま読経してもよかったのですが、やはりお別れした場所に赴きたい気持ちや、
ご住職の読経を頂きたい気持ちもあり、年に3回参加しています。
仕方のないことですがこういった場所は大抵、交通に不便なところにあります。
なので最寄駅からの送迎をお願いしています。


斎場に着きますと、多くの元飼い主さんがいらっしゃいます。
会場は納骨堂も兼ねているので、読経が始まるまでの間、少し見て回ることにします。
納骨堂には様々な大きさのスペースが確保されています。
最近よく見かける、販売委託用の店舗をイメージすると分かりやすいでしょうか。
段ボール箱ひとつ分くらいの部屋に食玩やフィギュア等を並べて、販売を委託するあれです。
あれより少し狭いくらいの部屋がいくつも並んでいて、そのそれぞれに別離した動物たちの縁の品が置かれています。
元気だった頃の写真、好きなフード、玩具、お線香、お位牌……。
それら品々を眺めていると、その子たちがいかに大切にされていたか、愛されていたかが分かります。
別れは辛いものです。
その想い出の品を取っておくのは、人間がかたちあるモノに執着しているからだと言います。
また、供養にはモノの有無は関係ないとも言います。
つまり亡き命に対してどう接するかは千差万別、自由なのだそうです。


読経の後、ご住職がお話をしてくださいました。
宗派が違えどもお経は全ての命のためにある、というのです。
つまり人間が成仏するためだけのものではなく、人間を含めたあらゆる命を彼岸に導くためにあるのだということです。
これは依然、新潟の僧侶さんから伺ったお話と同じでした。
仏教の世界では所謂、”あの世”というのは西にあるそうです。
陽が沈む方向に向こうの世界は存在し、この世とあの世の間には大きな川が流れているといいます。
つまりあの世は川の向こう、彼の岸……彼岸なのだそうです。
さらに供養の方法について、何が正しく、何が正しくないかも仰っていました。
結論はない、のです。
生者と死者は場所は別でも心が繋がっているので、生者が心から納得する方法で供養すれば、心を通して死者への供養になるのだそうです。
「供養」は「共に養う」から、供養する側が満たされなければ、死者もまた満たされないのだと言う事です。


法要が終わり後、個人的に訊いてみたいことがあり声をかけました。
僕は漢字が好きなので漢検の参考書もよく読んでいるのですが、熟語の中には仏教語由来と思しきものが多数存在します。
「彼岸(ひがん)」のお話があったので、問題集に出てきた「此岸(しがん)」が同じく仏教に関係する語と思い、訊ねてみました。
文字から推測はしていましたが、やはり彼岸との対比で、こちら側の世界を「此岸」というのだそうです。
またこれに関連して、死と殺生についてもお話を賜りました。
仏教では基本的に殺生を戒めています。
ただしこれはいかなる場合の殺生を含むという意ではなく、無益(無意味)な殺生を戒めているというのです。
おそらく開闢の頃は厳戒されていたのでしょうが、時代の流れとともに考え方が変わったのだろうと。
たとえばすぐ傍に毒虫がいて、放っておいては刺されて死んでしまう。
このとき、毒虫を殺すのはもちろん殺生ですが、危険なので殺してしまった。
そうした後、止むを得なかったとはいえ結果的に奪ってしまった命に心の中でもいいから念仏を唱える――その心構えが大切だというのです。
この考え方はながく矛盾に悩んでいた僕にとっては、ひとつの光明になりそうでした。
僕は犬や猫を大切にしますが、虫が苦手で部屋に入ってきたときは殺してしまいます。
またそうでなくても殺された動物を食べて生きています。
これが命を勝手に選別して片贔屓しているとしか思えなかったのです。
殺して終わりではなく、その命を弔う気持ちが大事だと言われれば、至極当然のように思えました。
が、そう伺ったとて、仮に自分の勝手で殺した命に哀悼を捧げても、僕の中の矛盾はまだまだ解けそうにありません。
根底にはどうしても『自分の手で命を奪っておいて念仏を唱えるなど烏滸がましい』という気持ちが生まれてしまいます。
またこれを納得してしまうと、『後で念仏を唱えるのだから殺してもいい』という安直な結論に至ってしまいそうな気がして、
なかなか受け入れることができないのです。
きつと僕が未熟な所為なのでしょう。
これを真に納得するには一生かかっても足りない気がします。