ペットが死を迎えた時、喪中葉書は出すべきか?

ずいぶん悩みました。
喪中葉書です。
愛犬が亡くなった場合、年賀欠礼葉書を出すや出さざるやと調べてみると賛否両論のようで。
僕も当初は絶対に出すと決めていたのですが、ペットが人間の生活に深く関わるようになった現在でさえ、
さすがに喪中葉書を出すのはやりすぎではないか、人間と獣を同等に扱うのはけしからん、という意見が多くあります。
ざっと検索してみたところ、否定的な見解は7割強といったところでしょうか。
実際にペットを喪った人の発言の端々には、喪に服したいので欠礼葉書を出したいと思いながらも、世間がまだそれを認めない空気を感じ取り、
理性が邪魔をして出すに出せない……という想いが見え隠れしているように感じました。

葉書を出したいとする人の意見としては、
『ペットではなく家族だったので、人間が亡くなったのと同じように喪に服したい』
『深い悲しみで年末年始の挨拶をする余裕などない』
『人間と動物を区別したがる傲慢な人間に嫌気がさした』
というのが大半のようです。(最後のは僕の考えですが)

一方で否定側の意見には、
『人間は人間、動物は動物。混同するのは間違い』
『犬猫が死んで喪中葉書を出すなんて言語道断。昔からそんなことはしていない』
『動物は法律的には物。家具が壊れたからといっていちいち喪中になるのか?』
『引く。可哀想だがペット如きが死んだからって、そういう感情を押しつけないで欲しい。そんな葉書を貰ったら今後の付き合いを考える』
などがあります。

どちらも一理あるんですよね。
文化、風習、習慣というのは太古からの積み重ねがあって出来上がるものですが、決して不変のものではないわけです。
時間をかけてゆっくりゆっくりと変化していきます。
その過渡期にあっていわゆる”伝統に訴える論証”を持ち出す否定派は、その通り歴史的にそのような事例がないから、
(現代でも)喪中葉書を出すのは間違いだとします。
逆に肯定側は遅すぎる伝統の革新に業を煮やして、住環境や人間関係がごく短時間で劇的に変化していることをひとつの材料として、
――つまり”新しさに訴える論証”を持ち出して――ペットの死によって欠礼葉書を出すのは人間の感情として当然だとします。
これはもう人間ひとりひとりの考え方なので、どちらが正しいか、どちらが間違っているか、ではありません。

ですから僕もひとりの考え方として意見を述べます。
賛同できると思われる方はお読みください。
否定的な方はブラウザの「戻る」をクリックするなどしてください。


 この日記を過去から読まれている方は、言うまでもなく僕が肯定派であるとお分かり戴けるものと思います。
その度合いの深浅は別として、ペットが元気であれば嬉しいし、お空に旅立てば悲しいものです。
悲しいから、不幸があったから年末年始の挨拶は失礼させていただく――。
これは当然であると思います。
むしろ愛する近しい者が亡くなり、周囲に心配をかけないために気丈に振る舞うならまだしも、そもそも悲しみを感じないような人間なら、
その喪失の対象が人間であってもそうでなくても、世間はその人物の神経を疑うでしょう。
これは人間もそれ以外の動物も同じことです。
心無い人間は、人間の命を尊く見る一方で、人間以外の動物の命を軽視します。
前述の否定派の意見によくある事なのですが、
『たかがペットの死で』という類の声を聞きます。
たとえば親兄弟を喪った人がいたとして、その人が慟哭している傍に、
『いつまでも悲しむな』とか『たかが家族が死んだくらいで』などと言うでしょうか?
無神経な――というかその人を激しく憎んでいるような人でも、そこまではなかなか言えないのではないでしょうか?
ところがこれが犬や猫、鳥になるとかなり軽はずみに出てくる言葉なんですね。
それは何故かと言うと”人間ではない”から。
法律的にはモノであり、古来使役されてきた動物に、人間並みの想いを寄せることは人間をバカにしている……ということなのでしょうか。
そういう意見、分からなくもありません。
人間は万物の霊長で、唯一火と言語を操ることができ、高度な文明を築くことのできる存在――。
といえば偉大な感じはします。
ただし、『人間は万物の霊長で、唯一火と言語を操ることができ、高度な文明を築くことのできる存在』と思っているのは、
実は人間だけかも知れず、他の生き物は歯牙にもかけていないかもしれません。
上述の優位性は人間が他の生物に対して絶対負けないところを自分勝手に選んでいるだけです。
人間にできなくて、他の生き物にできないことはいくらでもあります。
二酸化炭素から酸素を作り出す能力は人間にはありません。
犬は人間の何十倍もの嗅覚や聴覚を持っています。
空を翔けることにおいては翼のない人間は鳥類や昆虫には及ばないでしょう。
絶対零度や真空の中で生きられない人間はクマムシにも劣るでしょう。
これらに眼を瞑り、人間こそが尊貴であるかのように宣うのは欠点を覆い隠した上での虚しい誇示でしかありません。
だいたい自分で自分をエライと思っている人間にはロクなのが居ないのですよ。
(僕がそうですから)

『他人を巻き込むな』『そういう非常識な葉書を出す人とは今後の付き合いを考えたくなる』
という意見がいくつかありました。
人間の喪中葉書が届いたら、『他人を巻き込むな』と言えるでしょうか?
死者が出たという事で悲しみを表現していた人間が、その死者が実は動物だと分かった瞬間、
掌を返すように悲しんだのが無駄だったと言わんばかりに態度を豹変させたのを見た事があります。
(僕が体育会系を蔑するのに似ていますね)
欠礼葉書を出すのは悲しみの押し付けではありません。
”こういう事情があるので挨拶は失礼させて戴く”という立派な挨拶状です。
それを受け取る側が勝手に感情的になって、『ペットごときに』と理由をつけて自分が理解出来ないものを
頭ごなしに否定しているに過ぎないわけです。
むしろきちんと現況を報告した上で年末年始に先駆けて挨拶している点を斟酌し、真摯に受け取るほうが
よほどスマートですし、そういう人こそ挨拶云々についてモノを言っても説得力があるのではないでしょうか。
『非常識な葉書を出す人とは今後の付き合い方を考えたくなる』
という人もいるようですが……。
もし僕がそのように言われたら、僕はすかさずこう返すでしょう。

「他者の悲しみの一端すら理解しようとはせず、律儀に出してやった葉書一枚にいちいち腹を立てるような輩とは、
むしろこちらこそ今後の付き合い方を考えたくなる」と。


 感情的になってしまいました。
コンパニオンアニマルという言葉もまだ充分には浸透しておらず、人と人以外の動物との溝は深いと言わざるを得ません。
結局、僕は欠礼葉書を出しました。
ただ前述のようにペットの喪中葉書を出すのはマナー違反という、独善的で狭い考え方の人も多い世の中ですので、
挨拶文は必要最低限に抑えました。
簡潔に「年末年始の挨拶は失礼させていただく。明年も指導と交誼をよろしく」程度にまとめ、
誰がいつ亡くなったかは明らかにしませんでした。
(文例集を見ると、必ずしも故人の姓名を述べなくてもよい、とのことだったので)
まさかこの葉書を見て、誰が亡くなったのかと詮索するような人間はいないでしょう。
仮に訊ねてきたら僕はそれに正直に答えます。
そしてその人物がどのような顔をするのかを見ます。
その時の反応が僕をまたひとつ人間嫌いにさせてしまうか、それとも人間嫌いの進行を押し留めるのか……。
たぶん今の僕にはどうでもいいことです。
実際、そういうところに気を回すのは気持ちの無駄遣いとさえ思っています。
そんな暇があるなら僕はその気持ちを追悼に向けます。
愛犬の死に真摯に向き合いたいからです。